雑誌の発行部数も、単行本の発行部数も他のマンガ雑誌に大差をつけて1位を走り続けている「ジャンプ」ですが、もちろん最初からマンガ雑誌の巨人だったわけではなく、むしろ弱小誌としてスタートしたのです。
ではなぜ「ジャンプ」は、並みいるマンガ誌と一線を画す存在になったのでしょうか? そこには意外なワケがありました。
●「新人発掘」を重視して成功
「ジャンプ」が誕生したのは1968年ですが、創刊にはひとつ、大きな問題があったようです。立ち上げにも携わった4代目編集長の後藤広喜さんによると、「描いてくれる漫画家さんがいなかった」のだとか。
実は「ジャンプ」創刊当時、少年マンガ誌界にはすでに10年近くも先をゆくふたつの先輩誌、小学館の「週刊少年サンデー」(以下、サンデー)と講談社の「週刊少年マガジン」(以下、マガジン)が存在し、有名な漫画家はすでに2誌が抱え込んでいたのだそうです。
そこで「ジャンプ」が考えたのが、新人漫画家の発掘。著名な漫画家が無理なら、新しい才能を見いだして育てればいい……というワケです。
創刊号はご祝儀的意味もあったのでしょうか、赤塚不二夫先生や貝塚ヒロシ先生、永井豪先生などの顔ぶれが揃いましたが、同時に「第1回新人漫画大募集」の告知も載せられ、新人に門戸を開いているというスタンスが明確にされました。
次々と登場する新人漫画家は、常に新しい面白さを求める読者の少年たちをワクワクさせてくれたことでしょう。
積極的に新人漫画家を募集する姿勢は、後に『ドラゴンボール』などの大ヒット作を描いた鳥山明先生の発掘にもつながりました。鳥山先生は当初、賞金50万円のマガジンの新人募集に応募しようとしていたそうですが、締切りに間に合わなかったため、賞金は10万円ながらも毎週募集していた「ジャンプ」に応募したのです。毎週募集という大網を張っていたからこそ、才能をもれなく引き上げることができたのですね。
全文はソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/793c48234d96f801691d4f80d6bbd55531df1a7b
アニメ化に消極的なままだった可能性はあるけど
そこまでの影響はなかったんじゃないの?